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'''原 采蘋'''(はら さいひん、[[寛政]]10年([[1798年]]) - [[安政]]6年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1859年]][[10月26日]]))は、[[江戸時代]]後期の女流[[詩人]]。名は猷(みち)。采蘋は号で、他に霞窓などを名乗る。[[江馬細香]]・[[梁川紅蘭]]らとならぶ、江戸後期の女性[[漢詩]]人の代表的人物。[[男装]]、帯刀の女流詩人として知られる。
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==生涯==
== 生涯 ==
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地元の[[九州]]一円のみならず、西国や[[京都]]・[[大阪|大坂]]はもちろん東は江戸・[[房総半島]]まで足を伸ばしており、その間各地の高名な詩人と交流した。彼女と詩文を交換した詩人・学者として[[菅茶山]]・[[頼山陽]]・[[梁川星巌]]・[[佐藤一斎]]・[[松崎慊堂]]らがいる。


==人物・著作==
== 人物・著作 ==
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*亀井南冥の門下だった父古処と南冥の息子昭陽は親交があり、互いの娘少琹と采蘋も互いに行き来していて仲が良かった。亀井家と原家の親交は深く、親族のようだったとの記述もある。また、二人は幼い頃より、詩文に才能を開花させていたことも似通っている<ref>{{Cite book|和書 |title=『江戸風雅』別集 増訂 原采蘋伝 |date=2013年11月10日 |publisher=コプレス}}</ref>。
*父が生存中の文政8年([[1825年]])、父から「不許無名入故城」(有名になる前に故郷に帰るのを許さず)との句が入った詩を贈られたため、ほとんど故郷へは帰らず、旅の人生を送ったという。
*父が生存中の文政8年([[1825年]])、父から「不許無名入故城」(有名になる前に故郷に帰るのを許さず)との句が入った詩を贈られたため、ほとんど故郷へは帰らず、旅の人生を送ったという。
*江戸には長く滞在し、母を故郷から招こうとしたが、秋月藩から認められなかった。老母が病気になるに及んで故郷へ帰り、看病のかたわら私塾を開くが、母の没後は再び旅に出ている。
*江戸には長く滞在し、母を故郷から招こうとしたが、秋月藩から認められなかった。老母が病気になるに及んで故郷へ帰り、看病のかたわら私塾を開くが、母の没後は再び旅に出ている。
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==評伝==
== 評伝 ==
*[[小谷喜久江]]『女性漢詩人 原采蘋 詩と生涯 孝と自我の狭間で』 ([[笠間書院]]、2017年)ISBN 4305708450
*[[小谷喜久江]]『女性漢詩人 原采蘋 詩と生涯 孝と自我の狭間で』 ([[笠間書院]]、2017年)ISBN 4305708450
*小谷喜久江『楊花飛ぶ 原采蘋評伝』(九夏社、2018年)ISBN 4909240012
*小谷喜久江『楊花飛ぶ 原采蘋評伝』(九夏社、2018年)ISBN 4909240012


==関連作品==
== 関連作品 ==
*[[諸田玲子]]『女だてら』([[KADOKAWA]]、2020年)ISBN 4041094224
*[[諸田玲子]]『女だてら』([[KADOKAWA]]、2020年)ISBN 4041094224


==脚注==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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==参考文献==
== 参考文献 ==
*『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』([[吉川弘文館]])「原采蘋」(執筆:[[揖斐高]])
*『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』([[吉川弘文館]])「原采蘋」(執筆:[[揖斐高]])
*『日本歴史大事典 3』([[小学館]]、[[2001年]]、ISBN 4095230037)「原采蘋」(執筆:桑原恵)
*『日本歴史大事典 3』([[小学館]]、[[2001年]]、ISBN 4095230037)「原采蘋」(執筆:桑原恵)


==外部リンク==
== 外部リンク ==
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2023年7月30日 (日) 05:19時点における版

原 采蘋(はら さいひん、寛政10年4月[1]1798年) - 安政6年10月1日[2]1859年10月26日))は、江戸時代後期の女流詩人。名は猷(みち)。采蘋は号で、他に霞窓などを名乗る。江馬細香梁川紅蘭らとならぶ、江戸後期の女性漢詩人の代表的人物。男装、帯刀の女流詩人として知られる。采蘋は亀井小栞、二川玉篠とあわせて「筑前三閨秀」とよばれる[3]

生涯

1798年(寛政10年)筑前秋月藩に仕える儒学者の父・原古処と母・ゆきの娘として生まれる。兄と弟が病弱だったため父から期待され、漢文・詩・書道について教えを受けた。15歳の頃、古処が政変に巻き込まれて職を解かれ、20歳にして天城詩社に入って父の代講を務めた[4]。23歳で父に同行した際は広瀬淡窓を訪ね、咸宜園の子弟と唱和する[4]。25歳で江戸行きを決意し、父から「不許無名入故城」の餞別詩を送られる[4]。その後、菅茶山頼山陽と交流するが、父の重病のため一時帰郷する[4]。30歳で父が亡くなると再び江戸へ向かい、梁川星巌頼杏坪と交流した後、江戸に20年ほど滞在し『有喭楼日記』を記す[4]。母の病気のため、一時帰郷するが、萩で客死するまで遊歴を続けた[4]。男装のまま各地を旅し、生涯独身を通した。1859年(安政6年)、長州藩土屋蕭海を訪ねたが、同地で病を得て客死。享年62。墓は西念寺(福岡県朝倉郡秋月町)と光善寺(山口県萩市)にある。[5]

地元の九州一円のみならず、西国や京都大坂はもちろん東は江戸・房総半島まで足を伸ばしており、その間各地の高名な詩人と交流した。彼女と詩文を交換した詩人・学者として菅茶山頼山陽梁川星巌佐藤一斎松崎慊堂らがいる。

人物・著作

  • 亀井南冥の門下だった父古処と南冥の息子昭陽は親交があり、互いの娘少琹と采蘋も互いに行き来していて仲が良かった。亀井家と原家の親交は深く、親族のようだったとの記述もある。また、二人は幼い頃より、詩文に才能を開花させていたことも似通っている[6]
  • 父が生存中の文政8年(1825年)、父から「不許無名入故城」(有名になる前に故郷に帰るのを許さず)との句が入った詩を贈られたため、ほとんど故郷へは帰らず、旅の人生を送ったという。
  • 江戸には長く滞在し、母を故郷から招こうとしたが、秋月藩から認められなかった。老母が病気になるに及んで故郷へ帰り、看病のかたわら私塾を開くが、母の没後は再び旅に出ている。
  • 悲願である父の詩集の出版は、果たされることはなかった。
  • 自身の詩集として『東遊漫筆』『采蘋詩集』等の著がある。
  • 男の身なりで行動しただけではなく、当時の武家の女性としては破天荒とも思われる豪放磊落な性格で、好きでも知られたという。以下のように酒に関する詩文も残されている。
呼酒
酒唯人一口  酒はただ 人と一口
戸錢不須多  戸銭 多くをもちいず
詩思有時渇  詩思いて 時に渇くことあらば
呼杯醉裏哦  杯を呼びて 酔裏に口ずさむ

評伝

関連作品

脚注

出典

  1. ^ 『幕末閨秀原采蘋の生涯と詩』甘木市教育委員会、1993年12月25日、14頁。 
  2. ^ 『幕末閨秀原采蘋の生涯と詩』甘木市教育委員会、1993年12月25日、298頁。 
  3. ^ 『福岡博覧』海鳥社、2014年1月8日、9784874158975頁。 
  4. ^ a b c d e f 柯明「原采蘋の詩に見る時間意識 -その表現と特質-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第63巻、早稲田大学大学院文学研究科、2018年3月、955-972頁。 
  5. ^ 荒井周夫 編『福岡県碑誌筑前之部』大道学館出版部、1929年3月、364頁。 
  6. ^ 『『江戸風雅』別集 増訂 原采蘋伝』コプレス、2013年11月10日。 

参考文献

外部リンク