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'''高場 乱'''(たかば おさむ、[[天保]]2年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]([[1831年]][[11月11日]]) - [[明治]]24年([[1891年]])3月31日<ref>{{Cite book|和書 |title=近世に生きる女たち(福岡歴史探検②) |date=1995-5-12 |publisher=有限会社海鳥社 |isbn=4874150985 |pages=236,253 |author=福岡地方史研究会}}</ref>)は、[[江戸時代]]末期の女性[[儒学者]]で、[[眼科医]]、教育者。[[筑前国]][[博多]]の人<ref>{{Cite book|和書 |title=日本女性人名辞典 |date=1993‐06 |publisher=日本図書センター |page=633 |isbn=4820571281}}</ref>。[[幼名]]は養命。[[諱]]は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=福岡県の幕末維新 |date=2015-3-30 |publisher=海鳥社  |page=48 |editor=アクロス福岡文化誌編纂委員会 |isbn=9784874159385}}</ref>。[[頭山満]]ら多くの国士を育てた<ref>{{Cite book|和書 |title=頭山満と玄洋社 |date=2001-10-1 |year=2001 |publisher=海鳥社 |page=22 |isbn=9784874153659}}</ref>


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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筑前国博多瓦町の眼科医・[[高場正山]]の末子として生まれる。高場家は代々眼科医の名門で[[福岡藩]]の藩医を務めていた。幼名は「養命」であり、乱は男子扱いで育てられた。天保12年([[1841年]])、10歳で男性として元服した。この元服は藩に受理された公的なものであった。前例として、福岡藩の支藩にあたる[[秋月藩]]には[[原采蘋]]という男装帯刀の女性儒学者が既に存在していた。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に[[亀井昭陽]]の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人であった。
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亀井塾で学問を修めた乱は明治6年([[1873年]])、福岡藩[[住吉町|住吉村]]の薬用人参畑跡(現在[[博多駅]]の近く)に私塾[[興志塾]](通称「人参畑塾」)を開設し、医業の傍ら教育にも携わる道を選んだ。弟子は乱暴者と評判の者が多かったが、乱もあえてそういった人物を拒まなかったと伝わる。そのせいもあって乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたと伝わる。しかし、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年([[1874年]])頃に入門したのが[[玄洋社]]で知られる[[頭山満]]であり、彼の他にも後の玄洋社の主要なメンバーとなった[[平岡浩太郎]]や[[進藤喜平太]]、[[箱田六輔]]に[[武部小四郎]]などはいずれも興志塾で学んだ。
亀井塾で学問を修めた乱は明治6年([[1873年]])、福岡藩[[住吉町|住吉村]]の薬用人参畑跡(現在[[博多駅]]の近く)に私塾[[興志塾]](通称「人参畑塾」)を開設し、医業の傍ら教育にも携わる道を選んだ。弟子は乱暴者と評判の者が多かったが、乱もあえてそういった人物を拒まなかったと伝わる。そのせいもあって乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたと伝わる。しかし、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年([[1874年]])頃に入門したのが[[玄洋社]]で知られる[[頭山満]]であり、彼の他にも後の玄洋社の主要なメンバーとなった[[平岡浩太郎]]や[[進藤喜平太]]、[[箱田六輔]]に[[武部小四郎]]などはいずれも興志塾で学んだ。
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その弟子たちが起こした明治10年([[1877年]])3月の[[福岡の変]]への関与を疑われ、乱も一時は拘束されたが、のち釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、[[自由民権運動]]の高まりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。特に、弟子の一人である[[来島恒喜]]が[[大隈重信]]へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受けたようであり、この件を「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、医者であるにもかかわらず一切の治療を拒み、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。
その弟子たちが起こした明治10年([[1877年]])3月の[[福岡の変]]への関与を疑われ、乱も一時は拘束されたが、のち釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、[[自由民権運動]]の高まりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。特に、弟子の一人である[[来島恒喜]]が[[大隈重信]]へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受けたようであり、この件を「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、医者であるにもかかわらず一切の治療を拒み、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。


墓所は福岡市の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]にあり、墓碑銘「高場先生之墓」は[[勝海舟]]の書である。
墓所は福岡市の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]にあり、墓碑銘「高場先生之墓」は[[勝海舟]]の書である<ref>{{Cite book|和書 |title=凛 |date=1997-3-31 |year=1997 |publisher=藤原書店 |page=235 |isbn=4894340631}}</ref>

== 出典 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2023年7月29日 (土) 07:00時点における版

高場乱像(玄洋社記念館蔵)

高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日1831年11月11日) - 明治24年(1891年)3月31日[1])は、江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。筑前国博多の人[2]幼名は養命。は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など[3]頭山満ら多くの国士を育てた[4]

経歴

博多駅近くのグリーンビル脇にある人参畑塾跡記念碑
高場乱の墓(崇福寺

筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる[3]。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた[5]。幼名は「養命」であり、乱は男子扱いで育てられた[3]。天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。この元服は藩に受理された公的なものであった。前例として、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者が既に存在していた。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入った[6]。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人であった。

亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設し、医業の傍ら教育にも携わる道を選んだ。弟子は乱暴者と評判の者が多かったが、乱もあえてそういった人物を拒まなかったと伝わる。そのせいもあって乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたと伝わる。しかし、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが玄洋社で知られる頭山満であり、彼の他にも後の玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎進藤喜平太箱田六輔武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。

その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されたが、のち釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動の高まりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。特に、弟子の一人である来島恒喜大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受けたようであり、この件を「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、医者であるにもかかわらず一切の治療を拒み、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

墓所は福岡市の崇福寺にあり、墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟の書である[7]

出典

  1. ^ 福岡地方史研究会『近世に生きる女たち(福岡歴史探検②)』有限会社海鳥社、1995年5月12日、236,253頁。ISBN 4874150985 
  2. ^ 『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993‐06、633頁。ISBN 4820571281 
  3. ^ a b c アクロス福岡文化誌編纂委員会 編『福岡県の幕末維新』海鳥社 、2015年3月30日、48頁。ISBN 9784874159385 
  4. ^ 『頭山満と玄洋社』海鳥社、2001年10月1日、22頁。ISBN 9784874153659 
  5. ^ 福岡地方史研究会・編『近世に生きる女たち(福岡歴史探検②)』有限会社海鳥社、1995年5月12日、237頁。ISBN 4-87415-098-5 
  6. ^ 原田 久『幕末・維新と筑前・福岡藩』1999年2月3日、160頁。 
  7. ^ 『凛』藤原書店、1997年3月31日、235頁。ISBN 4894340631 

参考文献

  • 永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。ISBN 978-4894340633
  • 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN 978-4874157879
  • 荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年(崇福寺・玄洋社墓地の勝海舟の墓碑撰文、漢詩)
  • 浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN 978-4-86329-154-6
  • 『福岡県碑誌』大道館出版、昭和4年(絶版) (勝海舟による高場乱の墓碑撰文、訳文の記述あり)
  • 『玄洋社社史』玄洋社社史編纂会、平成4年(復刻)、葦書房、147ページ、ISBN 4-7512-0453-X

外部リンク