利用者:Eugene Ormandy/sandbox ロルフ・シュルテ

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1925年の日暮里大火 (にっぽりたいか) とは、同年3月18日に日暮里町大字金杉で発生した火災である。この火災を契機として区画整理が行われた。

背景

東京府北豊島郡日暮里村は、1913年に町制が敷かれ日暮里町となった[1]。日暮里町は急激な都市化を遂げたものの、1923年の関東大震災で一面焼け野原となってしまった[1]。震災後、日暮里は帝都復興のための大規模な区画整理事業の対象地となり、道路拡張工事や暗渠化が実施された[1]

火災の発生

1925年3月18日15時10分、日暮里町大字金杉1437(のちの東日暮里3丁目付近)のアサヒ半毛工場から出火した[2][3][4]

2000戸が焼失[4][5]

第三日暮里小学校、第五日暮里小学校が焼失[4]

救護活動

日暮里尋常高等小学校、第一日暮里小学校分校、第二日暮里小学校に避難所が設置された[4]。なお、第二日暮里小学校には、郡医師会、滝野川医師会、日暮里医師会で構成された救護所も設置された[4]。また、警視庁救護班が日暮里尋常高等小学校に、東京府救護班が済生会診療所に出張し、罹災者の救護にあたった[4]。1925年3月、同年12月、1926年6月に恩賜金があったほか、総額35204円83銭の義捐金が集まった[4]

大火後の土地区画整理

この火災を契機として「日暮里土地区画整理組合」が設立され、関東大震災の復興事業と接続して区画整理が行われた[6]。工事は1年半で完了し[1]、焼失区域は更生と発展を願って旭町と改称された[4][3]。なお、のちに旭町は1932年の市郡併合後の行政区割の変更に伴い、日暮里2丁目となった[4][7]。東京都荒川区教育委員会編『日暮里の民俗』は「日暮里は震災や大火によって、整然とした区割りの町づくりがなされたといっても過言ではない」と指摘している[1]

脚注

参考文献

  • 荒川区地域文化スポーツ部生涯学習課荒川ふるさと文化館 編『カメラがとらえたあの日あの場所 : Arakawa photo history : 令和4年度荒川ふるさと文化館企画展』荒川区教育委員会、2022年。全国書誌番号:23763194 
  • 東京都荒川区教育委員会 編『日暮里の民俗』東京都荒川区教育委員会、1997年。全国書誌番号:98051746 

外部リンク