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=== 美作七朗作品展 ===
=== 美作七朗作品展 ===
2017年9月8日から2018年3月25日にかけて、美作七朗の生誕110周年を記念した作品展が名曲喫茶ヴィオロン、名曲喫茶ルネッサンス、名曲喫茶でんえんの3店で同時開催された<ref name=":4">{{Cite web|title=名曲喫茶 ヴィオロン ホームページ|url=http://meikyoku-kissa-violon.com/misakushichirou.html|website=meikyoku-kissa-violon.com|accessdate=2020-02-23}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=甲斐みのり|year=2018-03-15|title=クラシック喫茶。|journal=BRUTUS|volume=|page=|pages=88-89}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2017-10|title=音楽とコーヒー ヴィオロン 阿佐ヶ谷 閑静な住宅街のなかに、ひっそりと現れる小さな名店|journal=東京人|volume=|page=101}}</ref>。株式会社山中修復工房の山中和人がプロデュースを担当し、絵葉書と中野クラシックのDVDが販売された<ref name=":4" />。また、この作品展に向けてヴィオロンの寺元は、七朗の作品に少しずつ修繕の手を加えていった<ref name=":6" />。
2017年9月8日から2018年3月25日にかけて、美作七朗の生誕110周年を記念した作品展が名曲喫茶ヴィオロン、名曲喫茶ルネッサンス、名曲喫茶でんえんの3店で同時開催された<ref name=":4">{{Cite web|title=名曲喫茶 ヴィオロン ホームページ|url=http://meikyoku-kissa-violon.com/misakushichirou.html|website=meikyoku-kissa-violon.com|accessdate=2020-02-23}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=甲斐みのり|year=2018-03-15|title=クラシック喫茶。|journal=BRUTUS|volume=|page=|pages=88-89}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2017-10|title=音楽とコーヒー ヴィオロン 阿佐ヶ谷 閑静な住宅街のなかに、ひっそりと現れる小さな名店|journal=東京人|volume=|page=101}}</ref>。株式会社山中修復工房の山中和人がプロデュースを担当し、絵葉書と中野クラシックのDVDが販売された<ref name=":4" />。また、この作品展に向けてヴィオロンの寺元は、七朗の作品に少しずつ修繕の手を加えていった<ref name=":6" />。

=== 美作七朗作品集 ===
美作七朗の没後30年を記念して『美作七朗作品集1907〜1989』が出版された<ref name=":18">{{Cite journal|和書|author=水上睦男|date=2020-03-27|title=名曲喫茶店主の絵画と人生観からみえるダンディズム|journal=週刊金曜日|issue=1274|page=54}}</ref>。美術ライターの水上睦男は本書について以下のように評している<ref name=":18" />。{{Quotation|美作は大正と昭和を生き抜いた。戦中の戦争画も、戦後のアンフォルメル(抽象画の一派)もグタイ(前衛運動)も、絵画ブームも、バブルの絵画狂乱も全て見ている。美術に関心がある以上、詳細に時代の流れを見ていたはずだが、自身は喫茶店経営と自分の絵画観の中に生き続けた。昭和初期の叙情性を未完成なまま抱き続けたと筆者は感じた。「クラシック」は、レトロ感を売り物にしていたかもしれないが、その根底に流れるのは、激動の昭和を生きた男の美学と覚悟と悔恨であり、本書はそれを実感するものと言えるだろう。}}


== 営業時間 ==
== 営業時間 ==
12:00~21:30 (月曜定休)<ref name=":0" />


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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2023年3月26日 (日) 12:25時点における版

名曲喫茶クラシック
本社所在地 日本の旗 日本
東京都中野区中野5丁目66番地8号
設立 1930年
事業内容 喫茶店の運営
代表者 美作七朗 美作良子
関係する人物 檜山真紀子 岡部雅子 寺元健治
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名曲喫茶クラシック(めいきょくきっさクラシック)とは、東京都中野区に存在した名曲喫茶である。

概要

クラシック音楽を店内で流していた喫茶店で、コーヒー1杯で何時間でも過ごすことができた[1]。7000枚のSP、2万枚のLPを所蔵しており[2]チョーク黒板に曲目を書くことで、リクエストが可能であった[3]

歴史

1908年熊本県に生まれた美作七朗は、もともと画家であり、美術教師をしていたが、さらなる絵画の勉強を志し単身上京した[4]。上京後の七朗は、銀座にあった「ダット」という喫茶店で友人たちとよく芸術談義に花を咲かせていたが、金のない学生が長時間粘るということで店側には嫌な顔をされていた[4]。そこで1930年、仲間が気兼ねなく集まれる場所を作ろうと思い立った七朗は、高円寺名曲喫茶「ルネッサンス」を開いた[2][5]。店の稼ぎだけでは生活できなかったので都庁に就職し、その稼ぎを店に使った[4]。戦時中は店名を「古典」と変えて営業したが、経営が厳しくなり一時休業した[2]1940年空襲により店は焼失したが、別の場所に保管してあったレコードは無事であった[2][4]。七朗は1943年に都庁を退職し、1945年には店を中野へ移して「クラシック」の名で再び店を開いた[2][4]。戦後の混乱でコーヒーが手に入らなかった時期は、日本茶干し柿を出したり[4]学生運動の時期には学生たちの議論・喧嘩の場になったりした[4]。また、七朗はブロック積みや左官作業などを大工たちとともにこなし、1964年には3階にアトリエを造った[6]。七朗は1989年に死去したが、一人娘の良子が店を継いだ[2]。独身だった良子には後継者がいなかったため、良子の死後、2005年1月に閉店した[1][7][8][9]

外装

中野北口のショッピング・アーケードと中野サンプラザに抜ける道の間に挟まれた横丁にあり、商業ビルに囲まれていた[3]

建物は三階建の木造建築であり[3]、南欧風の白壁に、スレート屋根風の外観で、上方にはの舵輪や時計などが飾られていた[10]。また、入口脇には「60年かわらないコーヒーです」という札書きがあった[6]。建物自体は1916年に造られたもので、クラシックの前にも喫茶店が入っていた[4][11]

内装

暗い店内の中央には吹き抜けがあり、オレンジ色のランプに照らされた2階は回廊式の談話室兼、七朗のアトリエであったため、じっくり聴きたい客は1階へ、おしゃべりをしたい人は2階へと自然と分かれていった[12][13][4][11]。木製のテーブルにはレザー椅子が並べられ、壁には七朗のジャケットハンチング帽と共に、七朗作の油絵、さらには世界中を旅して集めた数多くの時計がかけられていた[10][12][14][15]。なお床は木とレンガでできていて、2階の床は傾いていた[10]。客たちもこれらの内装に愛着を抱いており、七朗の娘の良子が大工を呼んで店の手直しをしたりした時や、店のランプ、時計、人形などのホコリを拭き取ったりした時にも苦言を呈した[16]

七朗は安い喫茶店を実現するべく、「貧乏器用」を掲げて店内の様々なものを自作した[10][17]。レンガの床や間仕切りにストーブ、さらにはスピーカーボックスから真空管アンプまで自分で作っていた[10][2][17]。なお、ビクターの古いポスターを真似て自作した蓄音機のラッパ部分は洗面器[11][12]の針を使ってSPレコードを聞かせていた[2]。七朗は「金針だと100回以上かけると音が汚くなる」と語っており、ほうきの枝などに使われる真竹を三角形に切って椿油につけておいたものを針として用いた[17]。この響きに惹かれ、かけて欲しいレコードを持参する者もいた[18]。また、店の音響に興味を持った客には、真空管アンプの作り方やスピーカーの組み立て方を教えた[6]

なお、店内にはが住み着いており、ソファの下で子どもを産んだこともあった[5]

メニュー

メニューはコーヒー紅茶ジュースのみで、食券制であった[10][11]。創業当時から変わらぬサントスとモカのブレンドコーヒーは[19]、色が濃くアクも強かったことから、タバコの銘柄になぞらえて「ハイライトコーヒー」と呼ばれていた[7]。また、ジュースは粉末ジュースであった[12]。食べ物は提供していなかったが、持ち込みは自由であった[3]。七朗は「インテリ映画にお金を使うので、高いコーヒーは飲めない」と語っており、音楽を本当に聴きに来る客を集めるために安価な値段設定としつつ[17]、「金持ちも貧乏人も共に音楽と会話を楽しめる店」を理想としていた[3]。1987年には年間の売り上げが最低となり、さらには地価高騰による赤字に苦しんだが、値上げはしなかった[20]。この時の取材に対し七朗は「平日だと100杯も出ない。前の石油危機の時は、世の中と逆に、売り上げが増えたのに」と語った[20]

1つあたり6円で譲り受けていたマヨネーズの蓋をミルク入れとして、さらには1つあたり10円で譲り受けていたワンカップ大関の瓶をグラスとして使用していた[11]。以前は1つあたり100円以上した金属製のミルク入れを用いていたが、2階で無くなる事態が多発したため、マヨネーズの蓋に変更した[17]。ただし、2004年時点の記事では、このマヨネーズの蓋は使われていない[21]。また、置きタバコは七朗が好んだ「わかば」のみであった[10]

なお、1日あたりの来客数は100人を目標としていたが[11]、1989年の時点で七朗は「昔は雨の日は満員だったが今はガラガラ」と述べている[19]

各記事発表時の値段
時期 値段 備考
開店当初[17] 各10銭
不明[22] 30円 1972年執筆のエッセイによる。
不明[12] コーヒー150円 紅茶、ジュースについての記載はなし。「当時の平均の半額以下」とされた(この記事の執筆は2011年)。
1987年9月[17] コーヒー160円, 紅茶150円, ジュース170円
1987年12月[20] コーヒー170円 「いまは、話題の『安売りコーヒー』の150円より20円だけ高いものの、平均的な店のほぼ半額」「名曲喫茶に限ると、最近は1杯500円の”高級店”もぼつぼつ」と説明されている。
1989年1月[19] コーヒー170円, 紅茶150円, ジュース170円
1989年2月[11] コーヒー170円, 紅茶150円, ジュース170円
1991年12月[10] 各250円
1994年12月[14] コーヒー300円 紅茶、ジュースについての記載はなし。
1995年2月[2] コーヒー300円 紅茶、ジュースについての記載はなし。
1995年7月[3] 各300円
1997年3月[15] コーヒー300円 紅茶、ジュースについての記載はなし。「これでは採算が合うはずもない」と書かれている。
1999年1月[6] 各350円

著名な常連客

  • 安部公房[2]
  • 三木卓[2]
  • 五木寛之 - 『風に吹かれて』収録のエッセイ「私たちの夜の大学」では〈K〉の名でクラシックを登場させた[2][22]。五木はクラシックにて初めてプロコフィエフの『キージェ中尉』を聴き、埴輪雄高が著した『不合理ゆえに吾信ず』という本を教えられた[22]
  • 井伏鱒二[11]
  • 園子温 - 映画『部屋』ではクラシックを撮影場所として利用した[5][23]
  • 大槻ケンヂ[5][24] - 1994年9月15日から10月16日にかけて東京ファッション協会が銀座で主催した写真展「私の好きな東京」において、日本大学有志が撮影したクラシックの写真を推薦した[25]
  • 川崎彰彦 - 従業員の女性と結婚した[26]

影響

名曲喫茶ヴィオロン名曲喫茶ルネッサンス名曲喫茶でんえんはクラシックから影響を受けている。

名曲喫茶ヴィオロン

名曲喫茶ヴィオロン

電気街秋葉原での就職を目指し、佐賀県から家出同然で上京した高校生の寺元健治は、1969年よりクラシックに通い始め、同じ九州出身の七朗と交流を深めた[4]。その後クラシックの片隅に居候し始め、朝昼晩の食事も七朗から提供される中で、店のアンプスピーカーを修繕したり造ったりした[4]。ただ、「店員は全員女性」と決まっていたため、寺元は店員にはならなかった[5]。寺元は七朗の勧めに従って大学に進学し、卒業間際にはヨーロッパを旅して様々なコンサートホールを周り、耳を鍛えた[4]。帰国後は就職をするも、やはり七朗の勧めに従い、1980年、27歳の時に名曲喫茶ヴィオロンを阿佐ヶ谷に開いた[4][27]。店内では七朗がデザインしたマッチが使われているほか、七朗が描いた油絵が飾られている[1][28][29]。また、クラシックと同様、食べ物の持ち込みを許可している[4]。ヴィオロンも開いてからも、定休日には互いの店に顔を出し合った[5]

クラシックが閉店した際には、店内の一部をヴィオロンに移築し、壁掛けやランプ、椅子を一番奥の席に設置した[30][5]。なお、その椅子は、寺元がクラシックで初めて座った椅子であった[1]

名曲喫茶ルネッサンス

名曲喫茶ルネッサンス

名曲喫茶ルネッサンスは、クラシックの閉店後にレコードや調度品を預かっていた従業員の檜山真紀子と岡部雅子が、それらをもとにして2007年高円寺に開いた店である[1]。真空管アンプこそ長時間使えるように買い替えたものの、什器やレコードはクラシックのものを利用している[31]なお「ルネッサンス」は、クラシックが当初高円寺にあった時の名称である[1]

ヴィオロンと同様、店内には七朗の作品が点在しており、七朗作の絵画や美作親子のポートレートが飾られているほか、七朗作のザルを使った照明が用いられている[1]。また、作品の展示以外にもクラシックの影響は垣間見られ、ワンフロアの店内にあえて段差を設けることで、二階建てであったクラシックをイメージしているほか、クラシックのルールを踏襲して、注文は入り口で行うシステムを採用しつつ、会話および食事の持ち込みを許可している(飲み物の持ち込みは不可)[1][7][32][33]。さらには、クラシックで使われていたリクエスト用の黒板とレコードリスト、そして手書きのメニューもそのまま利用している[5][7]

なお、クラシックの作品だけでなく、借金も丸ごと引き継ぎ完済している[7]

名曲喫茶でんえん

名曲喫茶でんえん

店主と友人であった七郎は、名曲喫茶でんえんの内装デザインを手がけた[34]。また、音響装置も店主とともに作成した[35]

美作七朗作品展

2017年9月8日から2018年3月25日にかけて、美作七朗の生誕110周年を記念した作品展が名曲喫茶ヴィオロン、名曲喫茶ルネッサンス、名曲喫茶でんえんの3店で同時開催された[36][37][38]。株式会社山中修復工房の山中和人がプロデュースを担当し、絵葉書と中野クラシックのDVDが販売された[36]。また、この作品展に向けてヴィオロンの寺元は、七朗の作品に少しずつ修繕の手を加えていった[5]

美作七朗作品集

美作七朗の没後30年を記念して『美作七朗作品集1907〜1989』が出版された[39]。美術ライターの水上睦男は本書について以下のように評している[39]

美作は大正と昭和を生き抜いた。戦中の戦争画も、戦後のアンフォルメル(抽象画の一派)もグタイ(前衛運動)も、絵画ブームも、バブルの絵画狂乱も全て見ている。美術に関心がある以上、詳細に時代の流れを見ていたはずだが、自身は喫茶店経営と自分の絵画観の中に生き続けた。昭和初期の叙情性を未完成なまま抱き続けたと筆者は感じた。「クラシック」は、レトロ感を売り物にしていたかもしれないが、その根底に流れるのは、激動の昭和を生きた男の美学と覚悟と悔恨であり、本書はそれを実感するものと言えるだろう。

営業時間

  • 12:00~21:30 (月曜定休)[2]
  • 冷房代を節約するために8月は休業していた[7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 森下和海「もう一つの古典喫茶 名曲喫茶よ永遠に」『男の隠れ家 臨時増刊号』2009年12月25日、90-99頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 「モノ語り 30年以上文化の灯を守り続け、今なお健在 老舗名曲喫茶」『サライ』第4巻、1999年2月16日、86頁。 
  3. ^ a b c d e f ケイト・クリッペンスティーン「名喫茶には時代の香りがいっぱい」『PLAYBOY』1995年7月、196頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 与那原恵「モノルポ21 時をつなぐ名曲喫茶」『モノ・マガジン』2001年8月16日、221-225頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i 今田壮「中野にあった「クラシック」という名の聖地」『散歩の達人』2015年2月、56-57頁。 
  6. ^ a b c d 北村純義「今だから行きたい東西13店 名曲喫茶」『毎日グラフ・アミューズ』1999年1月27日、105頁。 
  7. ^ a b c d e f 橘川有子「クラシックの調べを受け継いで」『OZmagazine』2017年8月、86-91頁。 
  8. ^ 三善里沙子「中野「クラシック」の閉店と、スタバの進出。沿線喫茶店文化の考察。」『東京人』2006年12月、57頁。 
  9. ^ “街のニッチ、ぶらり20年 エリア紹介、定番に 「散歩の達人」大人の道案内”. 朝日新聞東京朝刊: p. 25. (2016年4月17日) 
  10. ^ a b c d e f g h 「ミステリーゾーン 時間のとまった喫茶店、実は実体化した画家の作品だった」『VIEWS』1991年12月25日、91頁。 
  11. ^ a b c d e f g h 谷村志穂「クラシック 竹のハリ、蓄音機、小道具。50年同じ味のフレンチ珈琲」『DIME』1989年2月16日、66頁。 
  12. ^ a b c d e 本多正一「私のベスト3 あの喫茶店にもう一度」『群像』2011年11月、297頁。 
  13. ^ 平松洋子「この味」『週刊文春』2018年3月15日、91頁。 
  14. ^ a b 「あなたがすすめるお店情報」『Hanako』1994年12月1日、171頁。 
  15. ^ a b 佐藤明生「retro イン 東京」『週刊読売』1997年3月16日、152-153頁。 
  16. ^ 「アナログ共和国の住人たち」『BOX』1991年8月、72-75頁。 
  17. ^ a b c d e f g 美作七朗「名曲喫茶昨今」『婦人公論』1987年9月、454-455頁。 
  18. ^ “名曲喫茶 伝統の灯は消さぬ がんばる 昭和を音一筋に”. 読売新聞朝刊: p. 20. (1980年2月3日) 
  19. ^ a b c “[わが街名物]名曲喫茶「クラシック」 竹針、SP、古いランプ…”. 読売新聞朝刊: p. 25. (1989年1月19日) 
  20. ^ a b c “頑張る名曲喫茶 いま時コーヒー1杯170円 80歳店主の心意気”. 読売新聞朝刊: p. 16. (1987年12月27日) 
  21. ^ デイリーポータルZ:名曲喫茶クラシックで遥かなる時代に思いを馳せる”. backnumber.dailyportalz.jp. 2020年3月2日閲覧。
  22. ^ a b c 五木寛之『風に吹かれて』新潮社、1972年5月30日、46-50頁。ISBN 4-10-114702-7 
  23. ^ 部屋 THE ROOM - 作品”. Yahoo!映画. 2020年3月2日閲覧。
  24. ^ “【私の好きな東京】中野北口名曲喫茶「クラシック」ミュージシャン大槻ケンヂさん”. 産経新聞東京朝刊: 関東サタデ. (1994年10月15日) 
  25. ^ “著名人50人が選ぶ「私の好きな東京」写真展 銀座”. 朝日新聞東京朝刊. (1994年9月10日) 
  26. ^ “ぼくの早稲田時代、貧しく明るく50年代の青春――川崎彰彦著”. 日本経済新聞朝刊: p. 24. (2006年2月5日) 
  27. ^ 関屋淳子「クラシック音楽に浸る店」『サライ』2006年8月、126頁。 
  28. ^ 「扉を開けば異空間! レトロな空間と音楽に浸れる名曲喫茶も要チェック」『OZmagazine』2016年3月、47頁。 
  29. ^ 難波里奈「難波里奈・選 内装の美しい店」『東京人』2019年6月、84頁。 
  30. ^ 「ON and OFF 再発見!都会の小さなコンサートホール クラシックを味わう」『サンデー毎日』2007年3月25日、148頁。 
  31. ^ 「喫茶店とコーヒー 名曲喫茶へ」『CREA』2016年11月、68頁。 
  32. ^ 見せかけのおしゃれとは違う、本物の異空間へ。今「名曲喫茶」が静かなブームなんです | キナリノ”. キナリノ - 暮らしを素敵に丁寧に。. 2020年3月2日閲覧。
  33. ^ “喫茶で本格クラシック 名機が奏でる最高の音 「私語厳禁」店も”. 産経新聞東京朝刊: 生活面. (2008年1月25日) 
  34. ^ 「名曲喫茶よ永遠に」『男の隠れ家 臨時増刊号』2009年12月25日、96頁。 
  35. ^ 「今だから行きたい東西13店 名曲喫茶」『毎日グラフ・アミューズ』1999年1月27日、101頁。 
  36. ^ a b 名曲喫茶 ヴィオロン ホームページ”. meikyoku-kissa-violon.com. 2020年2月23日閲覧。
  37. ^ 甲斐みのり「クラシック喫茶。」『BRUTUS』2018年3月15日、88-89頁。 
  38. ^ 「音楽とコーヒー ヴィオロン 阿佐ヶ谷 閑静な住宅街のなかに、ひっそりと現れる小さな名店」『東京人』2017年10月、101頁。 
  39. ^ a b 水上睦男「名曲喫茶店主の絵画と人生観からみえるダンディズム」『週刊金曜日』第1274号、2020年3月27日、54頁。 

関連項目