「山田隆夫」の版間の差分
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[[1984年]][[10月7日]]から[[松崎真]]の後任として、『笑点』[[大喜利 (笑点)|大喜利]]での6代目[[座布団]]運び役に就任<ref name="jprime23608"/>。山田は前述の通り以前『笑点』の「ちびっ子大喜利」に出演していたことから、事実上番組に復帰した形となる。これまで座布団運びを務めてきた人は体格の良い者が多かったが、「重い座布団をちっちゃいのが運んだらおもしろいんじゃないか」という[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]と番組プロデューサーのアイデアで、岐路に立っていた山田に白羽の矢が立った<ref name="yamada2">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』91ページ</ref>。山田の色紋付は当初[[マゼンタ|赤紫]]だったが、1年後[[朱色]](番組では[[赤]]と扱われることが多い)に変わる。[[家紋|定紋]]は『[[カタバミ#家紋|剣かたばみ]]』。最初の挨拶の時は「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」というキャッチフレーズがあり、2015年の一時期は山田の挨拶がこのキャッチフレーズのみだった事がある。2016年頃から地方収録の時には、「山田流座布団運び家元とその一座でございます」という歌舞伎風の芝居がかった挨拶をするのが恒例となっている。 |
[[1984年]][[10月7日]]から[[松崎真]]の後任として、『笑点』[[大喜利 (笑点)|大喜利]]での6代目[[座布団]]運び役に就任<ref name="jprime23608"/>。山田は前述の通り以前『笑点』の「ちびっ子大喜利」に出演していたことから、事実上番組に復帰した形となる。これまで座布団運びを務めてきた人は体格の良い者が多かったが、「重い座布団をちっちゃいのが運んだらおもしろいんじゃないか」という[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]と番組プロデューサーのアイデアで、岐路に立っていた山田に白羽の矢が立った<ref name="yamada2">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』91ページ</ref>。山田の色紋付は当初[[マゼンタ|赤紫]]だったが、1年後[[朱色]](番組では[[赤]]と扱われることが多い)に変わる。[[家紋|定紋]]は『[[カタバミ#家紋|剣かたばみ]]』。最初の挨拶の時は「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」というキャッチフレーズがあり、2015年の一時期は山田の挨拶がこのキャッチフレーズのみだった事がある。2016年頃から地方収録の時には、「山田流座布団運び家元とその一座でございます」という歌舞伎風の芝居がかった挨拶をするのが恒例となっている。 |
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年齢的にはベテランながらいつまでも下働き的な役目をしていることから、回答者からしばしば「'''今日(今週)限りで番組卒業・クビ'''」「'''来週からは新座布団運びが登場'''」「'''あんな仕事は誰でも出来る'''」「'''[[キンチョール#テレビCM|山田の挨拶はつまらん]]'''」「'''いい加減辞めてほしい'''」などと罵倒されることが多く<ref group="注">また、24時間テレビ内で行われるチャリティ大喜利では、その年のパーソナリティーである女優が山田と共に座布団運びを務めており、司会者や回答者からも「'''来週以降もお願いします'''」と懇願されたり、女優自ら「'''後継を狙ってます'''」と発言することもある。</ref>、これに反発して回答者を突き飛ばすなど荒いやり方で座布団を没収する。罵倒されなくてもごく稀に突き飛ばして座布団を没収する事もある。これは、5代目三遊亭圓楽の目立たなくなりがちな座布団運びを番組に絡ませるための提案が元で始まった。山田の罵倒ネタは[[林家たい平]]、[[桂宮治]]を中心に、かつては[[林家こん平]]、[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]](楽太郎)、[[桂歌丸]]なども多用していた。座布団の没収に関して5代目圓楽からは「山田君に任せます」と言われてこの行為を黙認されていたが、歌丸や昇太からは奪った枚数+1枚(稀に2枚以上)を与えるように指示されることが多くなった。また、歌丸司会就任以降は、冒頭の挨拶の際に司会者から「○○な座布団運びのご挨拶からどうぞ」と、ほぼ毎回貶した形で紹介をされている<ref group="注">これは、前任の座布団運びである松崎真が務めていた際に、当時の司会だった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]が行っていた紹介の仕方を踏襲している。</ref>。 |
年齢的にはベテランながらいつまでも下働き的な役目をしていることから、回答者からしばしば「'''今日(今週)限りで番組卒業・クビ'''」「'''来週からは新座布団運びが登場'''」「'''あんな仕事は誰でも出来る'''」「'''[[キンチョール#テレビCM|山田の挨拶はつまらん]]'''」「'''いい加減辞めてほしい'''」などと罵倒されることが多く<ref group="注">また、24時間テレビ内で行われるチャリティ大喜利では、その年のパーソナリティーである女優が山田と共に座布団運びを務めており、司会者や回答者からも「'''来週以降もお願いします'''」と懇願されたり、女優自ら「'''後継を狙ってます'''」と発言することもある。</ref>、これに反発して回答者を突き飛ばすなど荒いやり方で座布団を没収する。罵倒されなくてもごく稀に突き飛ばして座布団を没収する事もある。これは、5代目三遊亭圓楽の目立たなくなりがちな座布団運びを番組に絡ませるための提案が元で始まった。山田の罵倒ネタは[[林家たい平]]、[[桂宮治]]を中心に、かつては[[林家こん平]]、[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]](楽太郎)、[[桂歌丸]]なども多用していた(特に林家こん平が多用した)。座布団の没収に関して5代目圓楽からは「山田君に任せます」と言われてこの行為を黙認されていたが、歌丸や昇太からは奪った枚数+1枚(稀に2枚以上)を与えるように指示されることが多くなった。また、歌丸司会就任以降は、冒頭の挨拶の際に司会者から「○○な座布団運びのご挨拶からどうぞ」と、ほぼ毎回貶した形で紹介をされている<ref group="注">これは、前任の座布団運びである松崎真が務めていた際に、当時の司会だった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]が行っていた紹介の仕方を踏襲している。</ref>。 |
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芸歴上は歌丸、[[林家木久扇]]、6代目円楽以外のメンバーは後輩にあたるが、メンバーからは「山田君」と呼ばれている<ref group=注>ただし、自身より年下の昇太・たい平・2代目三平・宮治からは「山田さん」と呼ばれることもある。</ref>。2010年ごろからパーマをかけた独特の髪形にしており、これも「人間の髪型じゃない」「爆発に巻き込まれた人」等とイジられることがあるほか、歌丸からは「カビの生えたような頭を直しなさい」と苦言を呈されている<ref>ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』25ページ</ref>。 |
芸歴上は歌丸、[[林家木久扇]]、6代目円楽以外のメンバーは後輩にあたるが、メンバーからは「山田君」と呼ばれている<ref group=注>ただし、自身より年下の昇太・たい平・2代目三平・宮治からは「山田さん」と呼ばれることもある。</ref>。2010年ごろからパーマをかけた独特の髪形にしており、これも「人間の髪型じゃない」「爆発に巻き込まれた人」等とイジられることがあるほか、歌丸からは「カビの生えたような頭を直しなさい」と苦言を呈されている<ref>ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』25ページ</ref>。 |
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== エピソード == |
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*部員として[[林家こん平]]が監督する[[らくご卓球クラブ]]に所属<ref name="jprime23608"/>。[[世界ベテラン卓球選手権]]に出場して公式戦で2勝する経験を持つ<ref name="rikunabi">[https://next.rikunabi.com/journal/20151120_1/ 幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」] リクナビNEXTジャーナル プロのシゴト観 2015年11月20日</ref>。 |
*部員として[[林家こん平]]が監督する[[らくご卓球クラブ]]に所属<ref name="jprime23608"/>。[[世界ベテラン卓球選手権]]に出場して公式戦で2勝する経験を持つ<ref name="rikunabi">[https://next.rikunabi.com/journal/20151120_1/ 幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」] リクナビNEXTジャーナル プロのシゴト観 2015年11月20日</ref>。 |
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*結婚歴は2回。元妻・吉川桂子との間に娘2人、現在の妻との間に息子と娘1人ずつがいる。そのため2000年代初頭までは『笑点』内で「子作りのことしか考えていない」「誰の子供だかわからない」などと子作りネタで罵倒されることが多かったほか、山田自らも「子作り名人」と挨拶で使うこともあった{{efn2|笑点のオープニングアニメーションでも、多くの子供に囲まれたイラストが使用されることがあった。}}。また元妻・吉川との結婚式は、当時[[テレビ東京|東京12チャンネル]]でMCを務めていた『[[対決!スーパーカークイズ]]』内で行われた。元妻と現在の妻は漢字は違うものの、同じ「けいこ」という名である。『笑点』公式サイト上の用語集によると、元妻が「桂子」、現妻が「恵子」と表記されている。 |
*結婚歴は2回。元妻・吉川桂子との間に娘2人、現在の妻との間に息子と娘1人ずつがいる。そのため2000年代初頭までは『笑点』内で「子作りのことしか考えていない」「誰の子供だかわからない」などと子作りネタで罵倒されることが多かった<ref group=注>特にこん平からは(同郷だった[[田中角栄]]の物真似で子作り政策を実行しますと言う問いに)「まずだね、山田つれてきて、村に放ちます!!」、「恵子ちゃん、山田の近くに[[バイアグラ]]、あってはならないあってはならない」とネタにされるなど、こちらも卒業と共にネタにされる事が多い。</ref>ほか、山田自らも「子作り名人」と挨拶で使うこともあった{{efn2|笑点のオープニングアニメーションでも、多くの子供に囲まれたイラストが使用されることがあった。}}。また元妻・吉川との結婚式は、当時[[テレビ東京|東京12チャンネル]]でMCを務めていた『[[対決!スーパーカークイズ]]』内で行われた。元妻と現在の妻は漢字は違うものの、同じ「けいこ」という名である。『笑点』公式サイト上の用語集によると、元妻が「桂子」、現妻が「恵子」と表記されている。 |
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*[[認知症]]を患う母親をアパートに住まわせていたが、諸般の事情から母親の看護は姉に全て任せたため、母親が亡くなるまで山田自身は一度として見舞いに訪れなかったという。「笑点」の大喜利でたい平を突き飛ばして自らの小指の[[靱帯]]を切った際、嫌な予感がしたと思ったら、そのとき母親が危篤状態で、そのまま息を引き取ったと笑点オフィシャル本の中で語っており、「身体を休めなさい」という母親からのメッセージが、小指の靱帯を切ったという形で現れたのではないかと本人は語っている。 |
*[[認知症]]を患う母親をアパートに住まわせていたが、諸般の事情から母親の看護は姉に全て任せたため、母親が亡くなるまで山田自身は一度として見舞いに訪れなかったという。「笑点」の大喜利でたい平を突き飛ばして自らの小指の[[靱帯]]を切った際、嫌な予感がしたと思ったら、そのとき母親が危篤状態で、そのまま息を引き取ったと笑点オフィシャル本の中で語っており、「身体を休めなさい」という母親からのメッセージが、小指の靱帯を切ったという形で現れたのではないかと本人は語っている。 |
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*以前立川志の輔と共にペヤングソースやきそばのCMに出演した際、[[まるか食品]]からカップ焼きそばを段ボールで1年分贈られており、そのカップ焼きそばのファンでもある六代目三遊亭円楽から「分けてくれ」とせがまれた時期がある。 |
*以前立川志の輔と共にペヤングソースやきそばのCMに出演した際、[[まるか食品]]からカップ焼きそばを段ボールで1年分贈られており、そのカップ焼きそばのファンでもある六代目三遊亭円楽から「分けてくれ」とせがまれた時期がある。 |
2022年9月30日 (金) 15:54時点における版
やまだ たかお 山田 たかお | |
---|---|
本名 | 山田 隆夫 |
生年月日 | 1956年8月23日(67歳) |
出生地 | 日本・東京都江東区深川 |
身長 | 148cm |
血液型 | A型 |
職業 |
タレント 歌手 落語家 |
活動期間 | 1966年 - |
配偶者 | 既婚(離婚歴あり) |
事務所 | 山高帽 |
山田 たかお | |
別名 | 鈴々舎 鈴丸(旧名)、山田 隆夫 |
---|---|
生年月日 | 1956年8月23日(67歳) |
出身地 | 日本・東京都江東区 |
師匠 | 5代目鈴々舎馬風 |
活動期間 | 1966年 - |
山田 隆夫(やまだ たかお、芸名: 山田 たかお[1]、高座名: 鈴々舎 鈴丸〈れいれいしゃ すずまる〉、1956年〈昭和31年〉8月23日 - )は、日本のタレント、歌手、落語家。5代目鈴々舎馬風門下でもある。東京都江東区深川出身。親類は、山田純大、杉良太郎(山田勝啓)が居る。
来歴・人物
生い立ち
幼少期、材木問屋の実家が詐欺に遭い全財産を失う[2]。それにより両親がいつも暗い顔をしていたので、山田は落語で両親を心から笑わせたいと思うようになり、これが落語に興味を持つきっかけになった[3]。
10歳の時、フジテレビの『ちびっこのどじまん』でデビュー[2]。番組の審査員に声をかけられ、NHKの歌番組に出演。さらに、その様子を目にした脚本家に見初められ『劇団ひまわり』に所属[2]。その後複数の番組に出演し、1970年からは日本テレビの『笑点』の「ちびっ子大喜利」にレギュラー出演した[3]。
ずうとるび
「ちびっ子大喜利」の座布団10枚獲得記念賞品がレコードデビューだったことから、1973年にずうとるびを結成し、歌手デビューを果たす[3]。ずうとるび在籍時代には歌手として、第26回NHK紅白歌合戦に出場。その後(1975年3月)日本大学豊山高等学校を卒業する。
1977年、結婚を機にずうとるびを脱退[3]。建前上は結婚のため脱退となっているが、実際はこの頃ずうとるびの音楽的方向性の考え方の相違から、当時は他のメンバーと険悪な状態になっており[2]、山田自身の意思による脱退だった(しかし、山田はメンバーらと後に和解し、2020年に再結成に至っている)。
ずうとるび脱退以降は俳優に主軸を置いた活動となるが、脱退と同時にずうとるびとして出演していた番組を軒並み降板することとなった。そのため仕事の数が急激に減り、当時既に所有していたマンションが主な収入源となっていた時期を経験することとなる。この時期の出演番組のひとつにNHKの子供向け番組『おかあさんといっしょ』があり、毎週土曜日に放送されていたコーナー『どんどんどん』のお兄さんを1980年度の1年間勤めた。この間、17歳でプロボクサーのライセンス(プロボクシングC級ライセンス)を取得した[4][5]。
俳優活動
俳優としても活動しており、多数のテレビドラマや映画に出演している。1987年にアメリカ映画『太陽の帝国』(監督スティーヴン・スピルバーグ)に出演[2]、オーディションにより決定したがその際には「キリストのお墓が日本のお寺にあるって聞いて、実際にそのお寺に行ってお坊さんに『本当にお墓はあるの?』って聞いたら、お坊さんが言ったんです。『イエス、イエス』」とギャグ披露、合格した[6]。また、これに伴い山田は役作りのために坊主頭になっている。その時期、警察署の一日署長を務めたことがあり、その写真が笑点40周年記念本に収録されている。
この演技が認められ、『ミスター・ベースボール』に通訳の役で出演が内定。山田自身も出演を公表していたものの、後に出演が取りやめとなった。
『笑点』の「座布団運び」として
1984年10月7日から松崎真の後任として、『笑点』大喜利での6代目座布団運び役に就任[2]。山田は前述の通り以前『笑点』の「ちびっ子大喜利」に出演していたことから、事実上番組に復帰した形となる。これまで座布団運びを務めてきた人は体格の良い者が多かったが、「重い座布団をちっちゃいのが運んだらおもしろいんじゃないか」という5代目三遊亭圓楽と番組プロデューサーのアイデアで、岐路に立っていた山田に白羽の矢が立った[7]。山田の色紋付は当初赤紫だったが、1年後朱色(番組では赤と扱われることが多い)に変わる。定紋は『剣かたばみ』。最初の挨拶の時は「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」というキャッチフレーズがあり、2015年の一時期は山田の挨拶がこのキャッチフレーズのみだった事がある。2016年頃から地方収録の時には、「山田流座布団運び家元とその一座でございます」という歌舞伎風の芝居がかった挨拶をするのが恒例となっている。
年齢的にはベテランながらいつまでも下働き的な役目をしていることから、回答者からしばしば「今日(今週)限りで番組卒業・クビ」「来週からは新座布団運びが登場」「あんな仕事は誰でも出来る」「山田の挨拶はつまらん」「いい加減辞めてほしい」などと罵倒されることが多く[注 1]、これに反発して回答者を突き飛ばすなど荒いやり方で座布団を没収する。罵倒されなくてもごく稀に突き飛ばして座布団を没収する事もある。これは、5代目三遊亭圓楽の目立たなくなりがちな座布団運びを番組に絡ませるための提案が元で始まった。山田の罵倒ネタは林家たい平、桂宮治を中心に、かつては林家こん平、6代目三遊亭円楽(楽太郎)、桂歌丸なども多用していた(特に林家こん平が多用した)。座布団の没収に関して5代目圓楽からは「山田君に任せます」と言われてこの行為を黙認されていたが、歌丸や昇太からは奪った枚数+1枚(稀に2枚以上)を与えるように指示されることが多くなった。また、歌丸司会就任以降は、冒頭の挨拶の際に司会者から「○○な座布団運びのご挨拶からどうぞ」と、ほぼ毎回貶した形で紹介をされている[注 2]。
芸歴上は歌丸、林家木久扇、6代目円楽以外のメンバーは後輩にあたるが、メンバーからは「山田君」と呼ばれている[注 3]。2010年ごろからパーマをかけた独特の髪形にしており、これも「人間の髪型じゃない」「爆発に巻き込まれた人」等とイジられることがあるほか、歌丸からは「カビの生えたような頭を直しなさい」と苦言を呈されている[8]。
江戸川区在住時代は5代目圓楽から「江戸川のスター」と紹介されることが多かったが、東京都の区画整備により高圧鉄塔が立つために立退き、横浜市に引っ越した。新居落成時には、番組でメンバーのお宅訪問が行われた。山田本人はこの邸宅を「座布団御殿」と呼んでいる。
なお、笑点には座布団係に徹するために本名で出演しているが、鈴々舎馬風に入門し、落語家として「鈴々舎鈴丸」という名を持っている。入門のきっかけは笑点の座布団運びになった事で、落語での世界のしきたり・作法や立ち居振る舞いなどを勉強する意味で、落語家修行を始めたものである[7]。番組内では時折「大喜利メンバー入り」の意思を宣言しており、稀に大喜利で回答することもあるため弟子入りしたとも考えられている。
1998年7月には自身が務めていた「大喜利」の座布団運びを若手大喜利のメンバー[注 4]に任せることとなり休んだが、視聴者から苦情や抗議が殺到したために一ヶ月ですぐに復帰した[9]。
2020年5月17日放送分以降は新型コロナウイルスの流行の影響で、番組の収録形式がリモートに変更になったことに伴い、山田は出る幕が無いことから不要不急として一時休演することになった[注 5]。しかし視聴者から心配する声が相次いだことにより、6月14日以降は挨拶の時のみ電話音声やVTRで出演するようになり、8月23日放送の「チャリティ笑点」からスタジオ収録に復帰している。
「山田くん(春風亭昇太は山田さん)例の物を配って下さい」と指示されて被り物やフリップを配る際の返事は「はい、畏まりました」か「畏まりました」だが「畏まりやした」と言い、木久扇に指摘された事がある。 また、歌丸生前に福島県いわき市での大喜利で「山田くんね、皆さんに例の物を配って下さい」の指示に対して「えっ」と返した事がある。
挨拶で飛び六法をして足を踏み外した事がある。
歌丸生前、挨拶で著書を紹介すると「つまらない本の紹介」と揶揄されていた。
エピソード
- 部員として林家こん平が監督するらくご卓球クラブに所属[2]。世界ベテラン卓球選手権に出場して公式戦で2勝する経験を持つ[4]。
- 結婚歴は2回。元妻・吉川桂子との間に娘2人、現在の妻との間に息子と娘1人ずつがいる。そのため2000年代初頭までは『笑点』内で「子作りのことしか考えていない」「誰の子供だかわからない」などと子作りネタで罵倒されることが多かった[注 6]ほか、山田自らも「子作り名人」と挨拶で使うこともあった[注 7]。また元妻・吉川との結婚式は、当時東京12チャンネルでMCを務めていた『対決!スーパーカークイズ』内で行われた。元妻と現在の妻は漢字は違うものの、同じ「けいこ」という名である。『笑点』公式サイト上の用語集によると、元妻が「桂子」、現妻が「恵子」と表記されている。
- 認知症を患う母親をアパートに住まわせていたが、諸般の事情から母親の看護は姉に全て任せたため、母親が亡くなるまで山田自身は一度として見舞いに訪れなかったという。「笑点」の大喜利でたい平を突き飛ばして自らの小指の靱帯を切った際、嫌な予感がしたと思ったら、そのとき母親が危篤状態で、そのまま息を引き取ったと笑点オフィシャル本の中で語っており、「身体を休めなさい」という母親からのメッセージが、小指の靱帯を切ったという形で現れたのではないかと本人は語っている。
- 以前立川志の輔と共にペヤングソースやきそばのCMに出演した際、まるか食品からカップ焼きそばを段ボールで1年分贈られており、そのカップ焼きそばのファンでもある六代目三遊亭円楽から「分けてくれ」とせがまれた時期がある。
- 「笑点」大喜利コーナーで運んでいる座布団は1枚3kg以上あり、ぎっくり腰を何度もやっている。そのため、日頃からジムで筋トレをしていると語っている[10]。
- 1985年8月12日、当時の笑点メンバー(5代目三遊亭圓楽、桂歌丸、林家こん平、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)、三遊亭小遊三、三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)、古今亭朝次(現・7代目桂才賀))と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りの予定だったが、当初予約した徳島空港行きに使われる航空機が遅延した上に同空港の悪天候により条件運行となったため、徳島行きの便の1つ後に出発する日本航空123便[注 8]に搭乗し神戸から船で移動する案が出された[注 9]。しかし、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したために当初の予定通り徳島行きの便に搭乗し、123便の墜落事故を逃れた。墜落事故については宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという[11]。
出演
ドラマ
- 明るいなかま(NHK教育 道徳番組)
- 天下御免(1971年、NHK総合)
- 赤ひげ 第8話「霜夜」(1972年12月1日、NHK総合)
- おやじ山脈(1972年、TBS)
- 刑事くん 第2シリーズ 第20話「瞼の母は夕焼け空」(1973年) - 伊達タカシ 役
- 夕ばえ作戦(NHK少年ドラマシリーズ、ずうとるびの仲間、今村良樹も共演)
- おおヒバリ!(1977年 - 1978年、TBS)
- 必殺仕事人(1979年、朝日放送) - 半吉 役
- ライオン奥様劇場 母さんの愛が聞こえる(1979年、フジテレビ/C.A.L) - 松山五郎 役
- 噂の刑事トミーとマツ(TBS / 大映テレビ)
- 第1シリーズ 第7話「あぁ煙突のてっぺんで」(1979年) - 水上オサム 役
- 第1シリーズ 第32話「ああトミマツの四回戦ボーイ」(1980年) - ライオン川口 役
- 第2シリーズ 第4話「トミー失神! マツの死を呼ぶ警察手帳」(1982年)- 中山三郎 役
- 大江戸捜査網 第3シリーズ(1980年、東京12チャンネル / 三船プロダクション) - 小者御用聞き 千代松親分 役(第432話~第498話)
- スーパー戦隊シリーズ(テレビ朝日 / 東映)
- 電子戦隊デンジマン 第30話「消えた盗んだ出た」(1980年) - サブ 役
- 太陽戦隊サンバルカン(1981年) - 矢沢助八 役
- 二百三高地 愛は死にますか(1981年、TBS / 東映) - 木下九市 役
- 秘密のデカちゃん 第4話「ヤバイ!愛妻宣言が録音された」(1981年、TBS / 大映テレビ) - 鬼沢岩太 役
- 意地悪ばあさん 第16話「スリにご用心の巻」(1982年、フジテレビ / テレパック) - 源次 役
- 鬼平犯科帳 第3シリーズ 第20話「市松小僧」(1982年、テレビ朝日 / 東宝) - 又吉 役
- ハウスこども劇場 第18話「五年二組の宿題戦争」(1982年7月20日、テレビ朝日)
- あゝ野麦峠(TBS)
- 思えば遠くへ来たもんだ(TBS)
- 木曜ゴールデンドラマ(読売テレビ)
- 「遅れてきた年賀状」(1985年)
- 「稚い殺意」(1985年)
- 気分は名探偵 第23話「探偵事務所は大騒動!?」(1985年、日本テレビ / ユニオン映画)
- あぶない刑事 第2話「救出」(1986年、日本テレビ / セントラルアーツ) - 依田 役
- 暴れん坊将軍II 第179話「箱根八里の鬼退治!」(1986年、テレビ朝日 / 東映) - 伊之助 役
- 名奉行 遠山の金さん 第2シリーズ 第6話「甘い囁きは女の敵」(1989年、テレビ朝日 / 東映) - 幸吉 役
- 三匹が斬る!(テレビ朝日 / 東映)
- また又・三匹が斬る! 第19話「さすらいの、姫君悲し鬼街道」(1991年) - 小平次 役
- 新・三匹が斬る! 第14話「金儲けの、イロハ指南に賭けた首」(1992年) - 平吉 役
- 集団左遷!! 第1話(2019年4月21日、TBS) - 宅配業者 役
映画
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(山口和彦監督)
- 沖縄10年戦争(松尾昭典監督)
- くるみ割り人形(サンリオ製作の人形アニメ、声の出演)
- 英霊たちの応援歌 最後の早慶戦(岡本喜八監督) - 明大落研の学生 役(劇中「まんじゅうこわい」を披露)
- 思えば遠くへ来たもんだ(朝間義隆監督)
- トロピカルミステリー 青春共和国(小原宏裕監督)
- キネマの天地(山田洋次監督)
- 太陽の帝国(スティーヴン・スピルバーグ監督) - 日本兵 役
- ぷりてぃ・ウーマン(渡邊孝好監督)
- 筆子・その愛 -天使のピアノ-(山田火砂子監督)
広告
- 中外製薬「新・中外胃腸薬」(板東英二と共演として声の出演のみ)
- ユニ・チャーム「ムーニーマンハイハイ用」 - ナレーション
- 大阪ガス「大阪ガスの安心システム」 - ナレーション(1994年・関西ローカル)
- 小学館「小学一年生」(2003年度・ナレーション)
- 味の素「ポテマヨ」(ナレーション)
- まるか食品「ペヤングソースやきそば」(立川志の輔と共演)
- サントリー「BOSS贅沢微糖」
- ヤマダ電機
バラエティ
- 学校そば屋テレビ局(TBS、ずうとるびの4人が中心になった公開型コメディ)
- 笑って!笑って!60分(TBS)
- 時間だヨ!アイドル登場(日本テレビ) - 降板したフィンガー5に代わりレギュラー出演
- 対決!スーパーカークイズ(東京12チャンネル、現・テレビ東京) - 司会
- 笑点(1970年8月24日 - 1974年頃、1984年10月7日 - 、日本テレビ) - 『ちびっ子大喜利』レギュラー、座布団運び
- X年後の関係者たち~あのムーブメントの舞台裏~ - 2022年4月12日放送「スーパーカーブーム」の回に出演
その他
- 晴ればれハローショッピング(独立UHF局ほか民放各局、吉村明宏の後継として出演中。共演はマッハ文朱)
- おかあさんといっしょ(NHK総合、1980年4月 - 1981年3月) - 『どんどんどん』のお兄さん
- KOWLOON'S GATE -九龍風水傳-(PlayStation用ゲームソフト、ハッカー役、1997年)
ディスコグラフィ
- 僕はカウンタックマン/スーパーカーなーんちゃって(1978年4月) - 東芝EMI
- 幸せのザブトン/なぜか埼玉(2001年11月21日) - 日本クラウン
著書
- ボクに運が巡ってくる55の理由 座布団運び山田くんの法則(廣済堂出版) 2012年(平成24年)5月25日発刊(企画・構成:今村良樹)
脚注
注釈
- ^ また、24時間テレビ内で行われるチャリティ大喜利では、その年のパーソナリティーである女優が山田と共に座布団運びを務めており、司会者や回答者からも「来週以降もお願いします」と懇願されたり、女優自ら「後継を狙ってます」と発言することもある。
- ^ これは、前任の座布団運びである松崎真が務めていた際に、当時の司会だった三波伸介が行っていた紹介の仕方を踏襲している。
- ^ ただし、自身より年下の昇太・たい平・2代目三平・宮治からは「山田さん」と呼ばれることもある。
- ^ この若手の中には、現司会者の春風亭昇太や後に大喜利メンバーとなる林家たい平も含まれていた。
- ^ メンバーが映されているモニターの隣に等身大写真パネルが設置され、CGアニメーションで山田が座布団を運ぶ演出が導入された。
- ^ 特にこん平からは(同郷だった田中角栄の物真似で子作り政策を実行しますと言う問いに)「まずだね、山田つれてきて、村に放ちます!!」、「恵子ちゃん、山田の近くにバイアグラ、あってはならないあってはならない」とネタにされるなど、こちらも卒業と共にネタにされる事が多い。
- ^ 笑点のオープニングアニメーションでも、多くの子供に囲まれたイラストが使用されることがあった。
- ^ 123便にはイベントに同行する予定の数名の広告代理店社員が搭乗した。
- ^ 当時は瀬戸大橋・明石海峡大橋・神戸空港は未開業。
出典
- ^ 2014年4月からは『笑点』出演時を除き芸名を本名から変更。
- ^ a b c d e f g "『笑点』で座布団を運び続けて38年、山田たかおが語る『ずうとるび』と心に残るジャニーさんの言葉". 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. 10 April 2022. 2022年4月10日閲覧。
- ^ a b c d ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』90ページ
- ^ a b 幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」 リクナビNEXTジャーナル プロのシゴト観 2015年11月20日
- ^ 山田 たかお profile 株式会社フジプランニング
- ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。
- ^ a b ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』91ページ
- ^ ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』25ページ
- ^ ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』92ページ
- ^ 2014年5月16日付日本経済新聞 文化面「座布団と積み重ねた幸せ」
- ^ 山田隆夫. ボクに運が巡ってくる55の理由. 廣済堂出版
関連項目
外部リンク
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