樋口季一郎

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樋口ひぐち 季一郎きいちろう
北部軍司令官時代の樋口(昭和18年頃)
生誕 1888年8月20日
日本の旗 日本兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)
死没 (1970-10-11) 1970年10月11日(82歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1906年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
勲章
墓所 大磯町妙大寺
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樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年明治21年〉8月20日 - 1970年昭和45年〉10月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍中将[2]兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長ハルピン特務機関長、第9師団等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め[3]、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い占守島の戦いなど)を行った[3]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1888年淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。

1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。

軍歴[編集]

1909年陸軍士官学校第21期)に進む一方で東京外語学校ロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年ウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満洲ロシアソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。

1925年公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。

オトポール事件[編集]

ハルビン特務機関長時代の樋口
(1937年撮影)

1937年昭和12年)12月26日(作家相良俊輔の書いた樋口の伝記『流氷の海』では1938年1月15日とされている。)、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツ反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[4]。(この頃は、まだナチもユダヤ人絶滅を具体的な施策として考えていたわけではなく、単に自領からのユダヤ人追放を企図していただけで、また、日本側にはユダヤ資本とユダヤ人を満洲国に導入できないかという河豚計画があった。)

そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、何千人というユダヤ人(人数については諸説あり、数字は樋口自身の遺稿による。)がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、部下であったハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[5]。しかし、この具体的内容については異説も多いほか、そもそもこのようなことが実際にあったのかを疑問視する声もある[6](参照:#異説・異論)。

樋口の孫である樋口隆一によれば、1970年、樋口の死の直前に日本イスラエル友好協会(現在ある日本イスラエル親善協会とは別の組織。)の顧問となっていた前述の河村愛三が訪れてきて、おそらくそのときに同協会の名誉評議員とされたことを伝えられたとし[7]、樋口の告別式には日本イスラエル友好協会の会員らも出席、同会代表の加藤大弦や後に樋口から手記を託されていて後に伝記を出版する作家の相良俊輔にも取材した当時の朝日新聞の記事では、1938年2月オトポールにユダヤ人2万人が足止めをくい、20人の凍死者が発生、樋口が12両編成の特別列車を13本仕立て、ハルピンに送り、食事も避難宿舎も提供した、その後これがドイツから問題とされたが、樋口はこれに人道上の問題と反論、当時の上司であった東条英機もこれを支持した、このことは日本では軍事機密とされて知られることがなかったとして、紹介された[8]

異説・異論[編集]

しかし、当の樋口の回想録ではいずれとも幾分異なっていて、1937年秋か1938年春にヒトラーが多数のユダヤ人を追放することがあり、わずかな荷物と少額の金銭のみのユダヤ人数千人(1971年の最初の回想録初版では、2万人とされていたが、樋口本人の遺稿では「何千人」となっていることが指摘され、復刻新版では訂正されている。)が足止めを受け、満州国外交部ハルピン代表部の日本人官吏と協議、人道上の問題として意見が一致、あとは満州国で話が進み、彼らの入国が許されたとし、特別列車や食事・宿舎提供の話はない。また、その半月後、ハルピンのユダヤ人協会のカウフマン博士らがこの件を勝手に樋口の指図によるものと思って自身への謝恩大会を開いた、はじめ樋口はドイツと日本の外交関係にも気遣ったスピーチをするつもりであったが、あまり称賛されるので気を良くして、ついユダヤ人の優秀さを誉め、ドイツの反ユダヤ政策を批判するスピーチをしてしまった、ドイツ政府が問題としたのは、このスピーチのドイツ政策批判の部分であったとしている[9]

これらの主張に対し、イスラエルのハイファ大学の日本研究家であるロテム・カウナー教授は、①樋口によって助けられたと証言するユダヤ人がいない、②オトポール事件について十分な内容の資料は結局は樋口自身の遺稿のみである(なお、ユダヤ教ラビで極東ユダヤ人社会の中心人物の一人である上智大学心理学者のビクター・ソロモン教授は、この話を樋口の死後に初めて聞き、1971年1月に記者公開のもとで、樋口の遺族、先の樋口の元部下である河村を含む日本イスラエル協会関係者らを招いて、彼らから話を聞く会を催した。そこでは樋口の遺稿が読み上げられ、ソロモン教授からは、この事件について資料を持つ者がいれば連絡するよう募られている[10]。)、③ユダヤ人の国外脱出が激しくなったのは1938年の「水晶の夜」事件以後で、1938年には数十人程度の満州移動しかなく、また、彼らは移動中に別段困難な目には遭っていない、④カウフマンは別に樋口がこのような形でユダヤ人救援を行ったことは語っていない、⑤この問題を取上げる動きは東条英機の再評価につなげようとする近年の歴史修正主義の動きとつながっていることを指摘している[6]

これに対し、一説では、この移動経路はユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたともされ、2万人とは、この経路をたどった避難民の数ではないかとする主張もある。このルートの通過者は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[11]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[11]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[12]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5人あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[13]

満州経由で諸外国に脱出したユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるともいわれていた[注 1][注 2]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」と語られている[15]。 オトポール事件で2万人のユダヤ系難民が救われたと戦後主張されるようになったことには、白石仁章はあまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視している[16]松浦寛はこの2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものとしている[17]。 早坂隆は、樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘している[18]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[19]。 松浦寛は当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[20]を追認している[17][17]満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[21]。当の救済実務に関係した元ハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三元少佐への取材によると考えられる『日本憲兵正史』(1976年)には、あくまでカウフマンの友人はかねてから諜報活動で知り合いであった河村愛三元少佐であり、河村がカウフマンから連絡を受けて、河村が樋口に知らせたものとした上で、500人のオトポールの村で2万人が足止めを受け、前章「#オトポール事件」にある多数の、具体的な数の列車車両、救済施設と大量の救済物資を用意したこと、しかしこれは軍事機密とされたため世間には一切知られなかったことが書かれている[22]

樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[23]

オトポール事件が実際に起こったとする説では、ドイツ政府政策批判の方なのか、オトポールでのユダヤ人救援行為の方なのか、ともあれ樋口の行為が日独間の外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いたとされる[24]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[24]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[25]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問としたとされる[26]。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[27]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したとされる[28]

ゴールデンブックをめぐる問題[編集]

ゴールデンブックをめぐっては、樋口自身は回想録において、以下のように語っている(なお、樋口の回想には、樋口自身のロシア語会話での誤訳による誤解や記憶違いがあることが考えられる。)

1938年にハルビンから東京に戻った後、ハルビンからユダヤ人スキデルスキー他1名が来て、ニューヨークに本部がある世界ユダヤ人協会が、エルサレムユダヤ教の総本山にある銀本に樋口の名を記すことを決定したと伝えられたとする[29]。そこでは、銀本はユダヤ人のために功績のあった非ユダヤ人の名を記すもので、バルフォアの次に樋口の名が記されるとし、金本はメンデルスゾーンのようなユダヤ人の傑出した人物の名を記すもので今ならアインシュタインのような人物が候補になるだろうと言われたとする[29]

回想録の出版にあたって同書の編者が確認したところ、イスラエル大使館の調査で「ユダヤ民族基金」のゴールデンブックの第6巻に登録されていたことが判明した[29]。これは、ユダヤ人国家建設運動を行っていた同基金が、土地買収や植林事業の資金を得るために始めたもので、ユダヤ人が家庭の祝い事で、同基金に金銭を支払って、家族や友人の名を公に陳列される本(豪華な装丁の巨大な本である。)に記してもらい、その名が記載されたことをもって相手へのプレゼントとするものである(現在は、陳列されている施設で、ケース内の実際の本と仮想ブラウジングで中のページを確認できる[30]。)[31]。ハイファ大学のカウナー教授によれば、数多くのユダヤ人が息子や友人の名を記してもらっていて金銭支払以外に特段の条件はないとのことで、ハルビンのユダヤ人協会代表のカウフマン博士らが、ハルビンの特務機関長で権力者であった樋口の歓心を買うため、協会から「ユダヤ国民基金」に寄付をする際、名前を記してもらったのだろうとみている[6]。ちなみに、日本では、日本人で名前の記されているのは樋口と安江仙弘の二人のみだと語られることも多いが、この安江は大連の特務機関長であった人物である。歴史家の秦邦彦はゴールデンブックをユダヤ人に貢献した者の名が記される本だとした上で、雑誌『正論』1989年9月号に、先の二人に加えバルフォア宣言を支持した内田康哉元外相と戦後に親イスラエル運動をした手島郁郎の計4人の名が記されていると述べている[32]

1970年の樋口の告別式に出席した日本イスラエル協会理事長の加藤大弦が朝日新聞の取材に対してゴールデンブックをメソポタミアにある碑と語る、相良俊輔の小説『流氷の海』ではエルサレムにある大型の本の形をした黄金製の碑であると述べるなど、日本ではこれを碑とする誤解も多い[8][33]

孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日にイスラエルテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部をゴールデンブックを見るために訪問、「栄誉の書」の管理人エフラト・ベンベニスティらから同書に「樋口将軍-東京、在ハルビン極東ユダヤ民族総領事アブラハム・カウフマンが記す」と記載されていることを示され、その証明書を授与されている[34][5]樋口隆一はそのとき、樋口とカウフマンの名が並んでいるのを見て、「二人は良い友人だった」と言って喜んだ[34]

太平洋戦争[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)開戦翌年の1942年8月1日札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。

1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州アッツ島守備隊は玉砕した。大本営がアッツ島守備隊の増援要請を拒否しアッツ島守備隊を見捨てることを決定したとき、一説には、樋口は守備隊を見捨てるとの決定に激怒したとするものもあるが、かといって、守備隊の降伏を認めるといった措置を取ろうとした節などは一切見られない。かえって北方軍司令部はアッツ島守備隊に対し、米軍相手に善戦し玉砕する覚悟を望むとの電文を送っている[35]。アッツ島守備隊の山崎隊長からは、負傷者の処分を終え、玉砕するとの返電があり、その言葉通り、アッツ島守備隊は玉砕した。戦後に樋口が防衛庁戦史室に出した手紙では、これを世界戦史上稀有のことと賞賛している[29]

キスカ島は、海軍が守備担当の地域であったが最終的にはアッツ島から陸軍部隊が移駐され、ほぼ海軍部隊と同数近い部隊が存在していた。陸海軍将兵らのキスカ島撤退は成功している。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要望に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[36]

帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた[37]。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、問題になったともされ、とくに陸軍次官富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[36]

同年10月2日には、札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪問し、藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕』に見入った[38]。1944年3月10日に、北海道に拠点を置く第五方面軍司令官を務め、南樺太や千島列島を担当地域に置いた。また1945年2月1日には兼北部軍管区司令官に就任した。

対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後[編集]

もともと北部軍では対ソ戦を主に戦略が構想されていたが、太平洋戦争半ば頃から対米戦を主と考え、とくに米軍が直接に北海道に来ることを樋口は懸念していた。樺太の第88師団では侵攻が近いとみて札幌の第5方面軍に具体的な作戦指導決定を再三求めていたが、方面軍では従来からの対米戦中心のために、7月に入っても樋口司令官・幕僚以下真剣に考えていなかった節があるという[39]。戦後20年近く経った1964年から1965年にかけて樋口自身が防衛庁(当時)の戦史室に送った書簡では、米軍は北海道に進攻すると考え、また、南方戦線が重視されていた為かなりの戦力を本土決戦用に移したのは事実だが、ソ連軍については戦況次第で南樺太に進攻してくるであろうが千島に進攻するかどうかは不明と考えていた、ただ、それを言えば士気にかかわると思って表向きには言わなかったもので、代わりに第一に対米戦、第二に対ソ戦準備と師団長クラスには語っていたと主張している[40]。一方で、例えば、北千島の91師団の作戦参謀水津満は、終戦時まで師団は対米一片倒でしか作戦を想定していなかったことを証言している[41]

日本の降伏直前の1945年8月10日ソ連対日参戦が発生。8月16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き戦闘行動を停止するよう全軍に命じたが、北方の第5方面軍を指揮していた樋口季一郎中将は以降も南樺太(おそらく占守島等の千島列島も)におけるソ連軍への抗戦を命じ、戦闘を続けさせた。これは、ソ連が南樺太から北海道等の日本本土に進攻、占領することを樋口が懸念、それによる赤化を恐れたとする説がある。ただし、樋口が防衛庁戦史室へ出した前記書簡を読む限り、樋口が南樺太・千島防衛を命じたのは、全く樋口自身がそこを守るべき日本本土の一部と考えていたためのようで、8月下旬の樺太での停戦成立(樺太第88師団の完全降伏である)後に特殊技能を持つ者を抱えた北海道の一部部隊を解散するなど、樋口自身は寧ろ樺太での停戦成立によりソ連軍の北海道侵攻の可能性が薄れたと考えた節がある[42]。また、札幌の方面軍司令部の星駒太郎参謀副長のように、樺太での交戦が方面軍司令部の差し金であることが発覚すれば、寧ろそれがソ連側の北海道への報復攻撃に繋がりかねないと懸念していた司令部幕僚らもいた[43]。樋口自身の戦後の遺稿によれば、ソ連軍は太平洋戦争の状況次第では南樺太に必ず進出してくる、千島はどうなるか分からないとするものもあるが、北海道について明確に語るものはない。むしろ、樋口自身はその遺稿で、1945年6月の対米戦一辺倒で考えていた頃には、千島からくる米軍に対し北海道の西半分を残し東半分を放棄するという南樺太との連繋を重視したとみられる案を持っていたこと、サンフランシスコ講和会議の後でソ連が千島を占拠し続けたことを当初はソ連が破れかぶれで行ったと思っていたが後にヤルタ協定以来の取り決めごとの流れだったと知ったと語っている等[44]、樋口自身は戦後もかなりの時期まで、千島・北海道は本来米軍の進攻領分だと思っていた節があることを示している。

スターリンは、極東国際軍事裁判に際し当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。これについてノンフィクション作家の早坂隆は、樋口の経歴がウラジオストック特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官であったことから、ソ連によって『敵の大物』であり、とくに特務機関長であったことが大きいとしている[45]。樋口自身、対ソ連の特務機関長であったことから、札幌方面軍総司令官として北海道にとどまらざるを得ない状況では、個人的にもソ連の北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。

世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まったともいわれる。日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[46][47][注 3]。背景にかつて同僚だったイギリス陸軍元参謀総長のエドムンド・アイアンサイド退役元帥が引き渡しを拒否する様、圧力をかけていたともされる[注 4]

冷戦が始まる中で米軍がロシア通として知られた樋口の情報網を利用したかったからとも、ユダヤ人らの運動の結果とも言われる。

晩年[編集]

1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁。さらに1947年宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた[3]

樋口自身は、麾下の部隊が行った占守島での戦いや樺太での戦いについて少なくとも些かは勝利したものと考えていて、産経新聞の伊藤正徳の戦史連載について、日本軍の敗戦史ばかりを取り上げ、これらの戦について取り上げないことに憤懣を感じると述べている[29]

1970年東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町妙大寺

死後[編集]

樋口季一郎の孫で音楽学者の樋口隆一明治学院大学名誉教授が祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[48]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[49]。同じく孫の篠田江里子(札幌市議会議員)は静かにロシア語の本を読んでいたと回想している[3]

人物[編集]

  • 橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。
  • 石原莞爾阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。
  • 安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。
  • 日本陸軍きってのロシア通として知られる。また、樋口は、ロシア人ほど人種偏見のない民族はなく、これは彼らの良心から来るものだとしている[29]。そのため男女を問わず個人にとっては恋愛対象の外国人としてロシア人は最適であろうとしながらも、樋口自身は、こういった人種偏見のないコスモポリタニズムはあくまで思想的態度に止めて、日本人は独立民族として純血の血統を保つべきであり、(日本国籍の)混血の発生は日本社会にとっても、生まれてくる当人自身にとっても、思想的混乱をもたらし害があるという考え方をとっていた[29]

アッツ島玉砕・キスカ島救出をめぐる問題[編集]

かねて樋口と親しかった作家・編集者の相良俊輔によって、樋口の死後に樋口の伝記小説である『流氷の海』(1973年)が出版された。この本をきっかけに、樋口がアッツ島部隊の救援を断念する代わりに、海軍に協力させてキスカ島部隊を救出をするよう、大本営に約束させたとのエピソードが広まることになった。同書には、このときアッツ島部隊救援の不可を伝えに来た秦参謀次長に樋口は激怒したと書かれている[33]。しかし、樋口本人はその『回想録』にも未収録となった遺稿の中では、キスカ救援は要求しているもののアッツ島放棄に関し自身は大本営の意に背するような人間ではないと述べている[50]。そもそも『流氷の海』は全くの小説仕立で、キスカ救援要請を含めて、当事者らの発言内容が本当にこのようなものであったのか、樋口以外にもこれを認めるような証言をする者がいたのかどうかは、この作品を見る限りでは分からない。

1943年のアッツ島の戦いにおいて、5月20日に樋口は大本営から大陸命793号「海軍と協同し西部アリューシャンの部隊を後方に撤収すること」との指示を受けた[51]。ところが、樋口はその遺稿で、ある書籍において、「樋口は撤収どころか、その後の22日にアッツの山崎部隊長に『大反攻作戦を現在考えている、その成否は山崎部隊の善戦にかかっている、要所陣地を確保するように』との指示を出した、これでは激励にもならない」と批判を受けたことを記している[50]。これに対し、樋口はその遺稿で、当時実際に反攻作戦を考えていて大本営にも進言し感触も得ていた、ところが計画実施が難しくなり、秦参謀次長が自身の所に説明に来た、そこで反攻作戦を断念する代わりに海軍に協力させてキスカ撤退をすることを自身が要求、海軍と交渉させ海軍が従うことになった、大陸命793号はその結果として出たものだと、反論していた[50]。つまり、樋口は、批判者は時系列を間違っていて、大陸命793号のアリューシャンの部隊とはキスカ部隊だけのことだと言うのである。

ところが、樋口の生前に出版が間に合わず死の翌年1971年に出版されることになった樋口の『回想録』(本来、この回想録は、アッツ玉砕やキスカ撤収の前の話までの予定であった。)には、樋口が戦後の1964年から1965年にかけて防衛庁(当時)の戦史資料室に出した手紙も収録することになり、その手紙には、1943年5月12日に米軍がアッツ島に上陸し、反攻作戦を計画していたところ、23日か24日(原文はこれらを二月の同日として記しているが、5月12日の米軍上陸後のこととして書かれているので、明らかにこの部分は五月の誤記。)に秦参謀次長がアッツ島の反攻作戦を断念するよう説得に来て、その結果、当日かその数日内に、アッツの山崎部隊長と電報で「武士道の精華を発揮」するようにとやり取りしたことが記されていた[29]

なお、樋口は先の遺稿において、実際には自身が23日に山崎部隊に玉砕要請を行ったことについては述べることなく、「山崎部隊は樋口の激励を信じて奮戦、撤収することは考えなかった、しかし島の北東部に圧迫され、29日に山崎部隊長はこれから全員で夜襲をかけると打電してきた」と述べ、あたかも、戦況の推移の結果として山崎部隊が追い詰められ、やむなく玉砕攻撃を自発的に行ったとするかのような書き方をしている[50]

このアッツ島玉砕の戦いにおいて麾下の現地アッツ島守備隊に送った実際の電文は、「最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」というものである。これに対し、最期に現地の守備隊長から、負傷兵は自決させた、みずから自決出来ない重傷者は処分した、これから全員で夜襲する、との返電を受けている[35]。樋口が戦後に防衛庁の戦史資料室に送った手紙では、これを守備隊長から「負傷兵の処理も了った、これより突撃する」との返電を受けたとし、これを世界戦史上稀有の出来事と称賛している[29]。さらに、この手紙では、この完全散華は守備隊長の人格のしからしめた所とするとともに、軍医大尉の一人は樋口自身の知っていた者で、この大尉の存在も大きかったのではないかとしている[29]。ちなみに関連性は不明だが、樋口麾下の北千島守備隊が後に行った占守島の戦いにおいても、ソ連軍との停戦時に、やはり動けない負傷兵の処分がこちらは衛生兵によって行われている[52]

年譜[編集]

背広姿の樋口

栄典[編集]

位階
勲章等

顕彰[編集]

樋口季一郎を顕彰して駐日イスラエル大使が寄贈したオリーブの樹の説明パネル(大垣市丸の内公園、2019年2月27日撮影)

平成21年(2009年)12月8日、樋口が岐阜県大垣市に約30年間本籍を置いていたことを知った駐日イスラエル大使から大垣市に対し2本のオリーブの苗木が贈呈され植樹式が執り行われる。また、樋口はユダヤ民族に貢献した人物を記したイスラエルの「ゴールデンブック」にも記載されている[62]

2020年9月、北海道石狩市・五の沢地区に記念館が開設された[63]。古民家を改築したホテルを経営する江崎幹夫が知人から樋口のことを教えられて敷地内の石蔵を記念館として提供することを決め、孫・樋口隆一に相談して了承を得た[3]

2023年(令和5年)5月21日、鎌倉市山ノ内の円覚寺の塔頭・龍隠庵に顕彰碑が建立され除幕式が行われた[64]

文献[編集]

著作[編集]

  • 「東京の防空に就て」『東京の防空 附・各都市防空法』帝国国防協会出版部、1932年5月、1-46頁。 NCID BA45754132全国書誌番号:47011032 
  • 『アッツ キスカ 軍司令官の回想』芙蓉書房、1971年10月。 NCID BN14143511全国書誌番号:73005961 
    樋口自身の直筆原稿との照合の結果、書き換えられている部分があると指摘されており、参照には注意が必要[65]
  • 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』樋口隆一編著、勉誠出版、2020年3月。ISBN 9784585222736NCID BB30211298全国書誌番号:23393203 

伝記[編集]

  • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社、1973年4月。 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社、1988年5月。ISBN 9784769800347 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年1月。ISBN 9784769820338 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社名作戦記 11〉、2003年8月。ISBN 9784769811114 
    • 相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社〈光人社NF文庫 さN-33〉、2010年3月。ISBN 9784769820338 
  • 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎』文藝春秋文春新書 758〉、2010年6月。ISBN 9784166607587 
  • 木内是壽『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社文芸思潮出版部、2014年6月。ISBN 9784902985665 
  • 将口泰浩『アッツ島とキスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎と木村昌福』海竜社、2017年6月。ISBN 9784759315493 
  • 岡部伸『至誠の日本インテリジェンス 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡』ワニブックス、2022年3月。ISBN 9784847071522 
    軍人3名の伝記で、他は小野寺信藤原岩市

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『樋口季一郎回想録』によれば1971年の朝日新聞の記事により事件を知り、『樋口季一郎の遺訓』によれば河村愛三ら日本イスラエル協会関係者からも当時の話を聞いたとする孫の樋口隆一(音楽学者、明治学院大学名誉教授)は、事件自体は事実あったことだが救済人数については正確な数字は「不詳」との立場だが、『遺訓』によれば「2万人」という難民の数は1971年の朝日新聞に出たもので、朝日の記事の出所は「日本イスラエル友好協会」関係者と伝記を書いた相良良輔であろうとし、おおもとは極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマン会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」[14]と述べている。
  2. ^ 他にも伝記小説、相良俊輔『流氷の海』でも「2万人説」を唱えている。
  3. ^ 樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件は一件も起きていない。これについて、樋口自身はその遺稿で、実は彼自身はいわゆる厳重処理も考えたことがあったものの、部下の萩参謀長や森藤憲兵隊長が、その都度、彼らの人道精神ないし武士道から「自分らにお任せください」と言ってうやむやにし、事なきを得たことを語っている。『アッツキスカ軍司令官の回想録』(1971年、芙蓉書房)P.358
  4. ^ 当時、アイアンサイドは貴族院議員だった。

出典[編集]

  1. ^ a b c 官報』1942年8月3日 叙任及辞令「昭和十七年八月一日 陸軍中将 正四位 勲一等 樋口季一郎 補北部軍司令官」
  2. ^ ユダヤ難民救った樋口中将 北海道に銅像建立へ実行委設立”. 産経ニュース (2021年12月11日). 2021年12月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e 外岡秀俊【道しるべ】足元に埋もれた歴史に光朝日新聞』朝刊2021年5月27日(新・木曜「カルチャー・考える」)2021年6月9日閲覧
  4. ^ ユダヤ難民救う 樋口/ "もう一人の杉原千畝" ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)”. 丹波新聞 (2018年10月29日). 2019年4月2日閲覧。
  5. ^ a b [1] 満洲でもユダヤ難民救出=「ヒグチ・ルート」孫が講演-イスラエル[リンク切れ]
  6. ^ a b c Questionable heroism”. FCCJ. 2023年9月26日閲覧。
  7. ^ 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』勉誠出版(株)、2020年3月30日、60-61頁。 
  8. ^ a b 「ユダヤ人2万に陰の恩人」『朝日新聞』、1970年10月20日、朝刊。
  9. ^ 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』啓文社、2022年9月5日、580-585頁。 
  10. ^ 「故樋口中将の人類愛 イスラエルに残したい」『朝日新聞』、1971年1月27日、朝刊。
  11. ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136-137頁。 
  12. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、136頁。 
  13. ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(大正出版、2000年)213頁。
  14. ^ 「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号
  15. ^ 貴族院第74回予算委員会(1939年)の2月23日の質疑では、有田八郎外務大臣が「何日頃のことかは不明だが、シベリア経由で満洲に入ったユダヤ人は80人強、100名には届いていないと記憶している」旨の答弁を行なっている(速記録のp.8最上段中ほど)
  16. ^ 歴史読本平成25年8月号 白石仁章「樋口季一郎とユダヤ人脈
  17. ^ a b c 松浦寛『日本人の〈ユダヤ人観〉変遷史』2016年、72-73頁。
  18. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。 
  19. ^ 正論』2016年3月号「忘れられた将軍・樋口季一郎と中国の対日歴史謀略」
  20. ^ JTB『観光文化』別冊特集「ユダヤ難民に"自由への道"をひらいた人々」
  21. ^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版、2000年、218頁。
  22. ^ 『日本憲兵正史』研文書院、1976年、770-772頁。 
  23. ^ 樋口季一郎 - NPO法人 国際留学生協会 / 向学新聞 より。
  24. ^ a b 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147頁。 
  25. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、147-148頁。 
  26. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、14 8頁。 
  27. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、149頁。 
  28. ^ 樋口季一郎物語~中編~[リンク切れ]
  29. ^ a b c d e f g h i j 『復刻新版 陸軍中将 樋口季一郎回想録』啓文社、2022年9月5日、589-590,28-29,表紙後ページ写真頁,589-590,28-29,706,676,223,699-700頁。 
  30. ^ Books of honor”. JNF. 2023年9月28日閲覧。
  31. ^ KKL-JNF Books of Honor - Keren Kayemeth LeIsrael”. JNF. 2023年9月26日閲覧。
  32. ^ 『昭和史の謎を追う』 上、文藝春秋〈文春文庫〉、1999年12月10日、253-254頁。 
  33. ^ a b 相良 俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社、1988年5月1日、127-128,348頁。 
  34. ^ a b Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor Wednesday, June 13, 2018KKL-JNF
  35. ^ a b 『戦史叢書 北東方面陸軍作戦 1 (アッツの玉砕)』 21巻、朝雲新聞社、1968年、421頁。 
  36. ^ a b 『なぜ日本陸海軍は共に戦えなかったのか 第六章 - 陸海軍の確執がもたらした壮大なる破綻 - アッツとキスカの明暗』潮書房光人新社、2019年、226–236頁。 
  37. ^ 秦 2005, p. 737, 第5部 陸海軍用語の解説-さ-三八式歩兵銃(陸軍)
  38. ^ 【五感紀行】藤田嗣治「アッツ島玉砕」『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2021年5月30日2面に写真で収録された同紙1943年10月3日夕刊記事「名畵に偲ぶ玉碎」による。
  39. ^ 江澤隆志『見捨てられた戦場』(株)洋泉社、2017年7月19日、123頁。 
  40. ^ 『陸軍中将樋口季一郎回想録』啓文社書房、2022年9月5日、689,693-694頁。 
  41. ^ 『昭和史の天皇』 7、読売新聞社、1969年7月10日、18頁。 
  42. ^ 『陸軍中将樋口季一郎回想録』啓文社書房、2022年9月5日、689,693-694頁。 
  43. ^ 『昭和史の天皇』 6巻、読売新聞社、1969年4月1日、410頁。 
  44. ^ 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』勉誠社、2020年3月。 
  45. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書〉、2010年6月18日、242頁。 
  46. ^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男”. 読売新聞. (2019年1月27日). p. 3. https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20190125-OYT8T50003/ 
  47. ^ 初の「玉砕戦」司令官/ "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは”. 丹波新聞. 丹波新聞 (2018年10月30日). 2019年4月2日閲覧。
  48. ^ Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor
  49. ^ 戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎 HiramekiTV
  50. ^ a b c d 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』勉誠出版、2020年4月2日、265-269頁。 
  51. ^ 大陸命第793号 昭和18年5月20日”. アジア歴史資料センター. 2023年9月21日閲覧。
  52. ^ 相原 秀起『一九四五 占守島の真実 少年戦車兵が見た最後の戦場』PHP〈PHP新書〉、2017年7月14日。 
  53. ^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和7年9月1日調73ページに記載。
  54. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  55. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  56. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  57. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  58. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  59. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  60. ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1939年11月17日。
  61. ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
  62. ^ もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将”. nippon.com. 2021年10月11日閲覧。
  63. ^ 「もう一人の杉原」樋口季一郎中将の記念館開館 北海道・石狩 産経ニュース(2020年9月15日)2021年1月14日閲覧
  64. ^ 信念貫きユダヤ人救う 鎌倉で陸軍中将の顕彰碑が完成”. 神奈川新聞. 2023年5月29日閲覧。
  65. ^ 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年、138-140頁。 ほか

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]